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旅行記録 -2012年3月ネパール、2013年8月北海道― (5/5) 2013北海道旅行3日目 釧路湿原

(1/5) (未完成)2012ネパール旅行1日目 機内
(2/5) (未完成)2012ネパール旅行1日目 広州での宿泊
(3/5) (未完成)2013北海道旅行2日目 知床五湖
(4/5) ~タンチョウと釧路湿原
(5/5) 2013北海道旅行3日目 釧路湿原

 


(5/5) 2013北海道旅行3日目 釧路湿原

 

北海道旅行の3日目は釧路湿原にきていた。レンタカーで丸一日釧路湿原周辺を探索し、夕方から阿寒湖に向かうというスケジュールだ。

釧路湿原の魅力は何といってもその景観だ。釧路湿原国立公園内にはその景観を一望できる展望台が複数あり、直接湿原の中を歩ける遊歩道やカヌー体験をできる場所なんかもある。
https://www.env.go.jp/park/common/data/04_kushiro_map_j.pdf
その中で細岡展望台と釧路市湿原展望台の2つを行き先として、道すがら周辺を探索することに決める。位置関係としては東に長岡展望台が、西に釧路市湿原展望台がある。出発地の釧路市内からまずは長岡展望台に向かい、反時計回りに釧路湿原を周回する様なかたちで釧路市湿原展望台へと向かうコースだ。

釧路市内から細岡展望台へと向かうにはちょっとした山道を通る。車の通りが殆どなく、アスファルトで舗装されていない砂利の道だ。
雲がかかっていたものの空は青く太陽が眩しく輝く日だった。辺り一面の草木や遠くまで広がる森が雲の隙間から溢れ出る陽の光に照らされて、生き生きとした緑色の世界を作りだしている。車の窓を開けると気持ちの良い風が吹き抜けて、鳥の声や虫の声、風の音、そんな自然の音が聞こえてくる。気温も湿度も心地よく、これ以上にない好天の日だ。

細岡展望台の駐車場に着き、車を停めて展望台へと向かった。展望台には何人かの観光客がいてたものの、それ程混んではおらず、湿原を眺める場所を確保することができた。
細岡展望台は釧路湿原にある展望台の中でも最も人気のスポットといえ、そこからの眺めは障害物も殆どなく、見渡す限りの湿原や蛇行する釧路川、湿原を取り囲む森林を一望することができる。天気が良ければ遠くに連なる山々を眺めることが出来るし、夕方になればオレンジ色に染まった湿原が姿を現す。
湿原の風景というものを僕はそれまで見たことがなかったが、細岡展望台からの眺めは素晴らしかった。ヨシやスゲなどの水生植物が一面に広がっている様は、遠くから眺めると一様な黄緑色の地面を形作っている様に見える。季節柄なのか、水生植物が薄茶色になっている部分もあり、その色の織り合い、更にはところどころに見られる雲の影が作り出す明暗が、景色に多様さをもたらしている。水生植物の広がりの中でところどころぽつんと木が立っている点も、湿原以外ではあまり見られない光景なのかもしれない(後で調べたところ、これらの木はハンノキといい、この光景はアフリカのサバンナを想起させる風景と言われている)。展望台から眺めて左側は雲がかかり、雲と湿原の間の大気は灰色で流動的であったため、その場所では雨が降っていることが分かった。釧路湿原という一つの空間の中で異なる天候が見られるのも印象的だ。雲の流れは早いため、太陽が雲に隠れて少し暗くなったり、雲の影の場所が変わったり、雨が降っている場所が少しづつ移動したりする。釧路湿原の変わっていく景色をいつまででも楽しむことができた。
遠くからチェーンソーか何かで木を伐採している音が聞こえる。でもそういった人工的な音が気にならない位、気持ちが良い。近くで咲いている花の周りでは、大きなハチが音をたてながら花から花へと忙しそうに飛び回っていた。
時々、電車が走る音が聞こえてくる。前々日に釧路空港から知床に向かう際に乗ったノロッコ号だろう。ノロッコ号は展望台の下に広がる林の中を釧路川沿いに走っているので、ここからでは姿が見えない。でも、都心であれば気にかけない様な電車の音も、のどかな湿原においては少し異様な存在感を放つ。音の変化によって見えない車両が近づき、そして遠ざかっていくのが分かった。展望台の付近を通る時に鳴らした汽笛が湿原の彼方まで鳴り響いている様に感じられた。湿原の生き物たちはこの音はどの様に聞いているのだろうか。

しばらくそこにいると細岡展望台の上空にも雲が差し、雨がポツポツと降り始めてきた。車に戻り次の目的地である釧路市湿原展望台へと向かう。走り始めて暫くすると大粒の雨に変わった。さっきまでの天気が嘘の様な降り方だった。

釧路市湿原展望台にたどり着く手前のところに温根内木道がある。ここは湿原内に遊歩道が設置されており、ヨシやスゲ、ミズゴケ等の水生植物が生えた湿原の中を歩くことが出来る。
たどり着く頃には雨は止んでいたが、天気が変わりやすいので、途中で立ち寄ったコンビニエンスストアで買ったビニール傘を持参して遊歩道へと向かった。

駐車場には何台か車が止まっていたが、遊歩道の中は人が少なく、僕の数十メートル先をレインコートを着た二人組が歩いている位だった。遊歩道を歩くと木が軋む気持ちの良い音が聞こえる。遊歩道の両脇には、水の底から生えたヨシの葉が並んでいる。
この辺りは低層湿原といって、湿原の形成過程における初期段階の湿地になる。低層湿原は文字通り周囲より標高が低いため、周辺から水が流れ込み沼の様になっている。その上に遊歩道が作られているため、遊歩道から足を踏み外すと車に戻って着替えてこなければならないことになる。低層湿原では主にヨシやスゲ類が植生しており、この植物が分解されずに泥炭となって堆積していくと、標高が高くなって高層湿原になる。高層湿原では周囲から水が流入しないので雨水しか水を確保する手段がなく、水分や栄養分が少ない土地となり、生える植物は水が少なくても生きることが出来るミズゴケ類が中心になる。釧路湿原は面積の約80%が低層湿原だ。なお、先述した泥炭はピートともいい、ウイスキーが好きな人には馴染みが深いかもしれない。

先ほど細岡展望台から眺めた湿原を内側からみると、あれほど広大であることを想像するのは難しい。遊歩道の両脇に生えているヨシやスゲは、先ほどは地面を形成する色彩としてしか見えなかったが、ここからだとどこまでも身近な存在であり、どこまでも実際的だ。それぞれの一本一本に生命が宿っているのが感じられる。湿原の環境が彼らを育み、彼らが湿原の景観を形成している。彼らは何を思い、決して肥沃とは言えない土地の冷たい水の中を住処として決めたのだろうか。

遊歩道の中で湿原の最も内側に入り込んだ場所にたどり着いた。湿原の中心部の方を向くと、見渡す限りの水生植物を眺めることが出来る。風が吹くと少し肌寒い。空は曇っており、青空はあまり見えない。

遠く離れた湿原の中にはぽつんと木が幾つか生えていることに気づいた。ハンノキなのだろうがこの時は名前すらわからない。ヨシやスゲ等の今まで見た水生植物とは全く違う、どこでも見かける様な木だ。この湿潤な土地にも、そんな木が生えていることを知り、驚かされた。貧養な土地のためか木の枝は細く、葉は木の上部に間に合わせの様にちょこんとついているだけで、幹がむき出しになっている。寒さをしのぐ術を身につけていない様にみえる。

沼の底に根を張るその木が感じる水の冷たさを想像してみる。細い幹に強い風を受け、倒れない様に耐えている姿を想像する。厳しい冬には辺り一面を雪が覆い、乏しい養分を幹に巡らせて冬を越えようとする姿と意思を想像する。
その様な状況を考えていると、その木が何かの目的を持ってそこに生えている様に思えてきた。木は湿原の奥深くで、誰にも知られることなく厳しい環境を耐え、その使命を果たそうとしている。一本の微力な木ができることは大きくはないと知りつつも、彼らは決して役割を放棄したりはしない。

彼らはそれぞれ一人ではあるものの、木同士がお互いの存在を知っているのかもしれない。それぞれの間の距離は離れており、意思疎通はできそうもない。でもお互いの存在をただ認識することが、彼らの意思をより強固にする。離れた同志のことを時おり思い出し、日々の困難を乗り越える糧にしていく。

その時ふと僕の胸の中をある想いが満たしているのに気が付いた。とても不思議な感覚だったが、その正体を突き止めるのに時間はかからなかった。ばかばかしい話かもしれないが、その木々に親しみを覚えてしまったのだ。仲の良い友人に抱く気持ちと同じ様に。彼らの意思に触れ、その想いを共有できた様な気がしたのだ。これは形而上的な話でもなく、抽象的な意味を込めた話でもない。極めて直截的な意味において、その木々に親しみを覚えていた。こんな感覚は初めてだった。

先を進んでいた二人組はもう姿を消しており、進んできた道や周囲を見渡しても誰もいない。僕は1人だった。しかしそこで感じたものは、かつて広州の宿や知床五湖で感じた孤独感とは全く違っていた。少しの疑念も抱くことなく想いを1つにすることが出来る仲間がここにいるのだ。

久しぶりに温かい気持ちが胸を満たしていた。こんな気持ちになれたのはいつ以来だろうか。きっともう覚えていない位昔のことだ。

雨が降り始めた。小降りでも肌に当たる雨粒は冷たかった。僕は気にすることなく湿原の彼方を眺め続けていた。雨は冷たかったが、ただ冷たいと感じられるだけで、傘をさそうという気や車に戻ろうという気は起こらなかった。身体が雨の冷たさと風の寒さを受け入れている様だった。感覚は研ぎ澄まされ、その雨を通して釧路湿原の意思が僕を受け入れてくれている様に感じられた。このままずっと釧路湿原と一体化していたいという気持ちになっていた。

そのままどの位の時間そうやって立ち続けていたかは覚えていない。
ずっとその場に居続けたかったが、そうするべきではなかった。僕は彼らと境遇は似ていたかもしれないが、身を置いている環境は違っていた。僕の願いはここでは果たすことはできない。ここではない別の場所で、彼らとは違うことをしなければならない。もっと現実的なことだ。だからここを離れなければいけない。
でもそれで彼らとの関係が途絶えるわけではない。困難に直面した時は、遠く離れた彼らのことを思い出そう。広い湿原の中で一人天命を果たそうとする姿を。僕に与えてくれた温かさを。
今まで抱いてきた、ある問題を解消したいという思いが、僕の中ではっきりとした使命に変わった瞬間だった。


持っていたビニール傘を差しその場所から離れた。僕は、雨が振れば傘を差し、寒ければ上着を羽織る様な生活をしなければならないのだ。
進んでいく道は来た道とは全く違う道の様に感じられた。僕は振り返ることなく、その新しい道を進み続けた。雨の降る釧路湿原の音の世界に、ポツポツとビニール傘をうつ現実的な音が響きわたっていた。

 

旅行記録 -2012年3月ネパール、2013年8月北海道― (4/5) ~タンチョウと釧路湿原~

(1/5) (未完成)2012ネパール旅行1日目 機内

(2/5) (未完成)2012ネパール旅行1日目 広州での宿泊

(3/5) (未完成)2013北海道旅行2日目 知床五湖

(4/5) ~タンチョウと釧路湿原

(5/5) 2013北海道旅行3日目 釧路湿原

 

 

 

(4/5) ~タンチョウと釧路湿原

 

【タンチョウの生物的特徴】

タンチョウはツル目ツル科に分類される鳥類の一種(タンチョウ以外には、アメリカシロヅルやクロヅル等、15種が生息)。

学名はGrus japonensis(グルス・ヤポネンシス)。

「日本のツル」という意味を持ち、世界の総個体数2,750羽(J.Harris in litt.2007,in litt.2009)のうち約1,500羽(タンチョウ保護研究グループ,2014)と半数近くが日本に生息。

保護活動の成果もあり日本では1952年の33頭から大幅に増えてはいるが、絶滅危惧種として指定され、現在でも保護活動が続いている。

 

生息地域は、日本では北海道の東部(十勝、釧路、根室、網走)の域内に一年中留まっている。

一方、海外ではロシアと中国の国境近辺を流れるアムール川黒竜江)支流域に生息し、冬になると長江付近の中国東海岸域や、南北朝鮮の国境付近の非武装地帯まで大きく南下する(動物園でみられるタンチョウの殆どは海外で捕獲されたもの。なお、この2つは同じ種であるものの性質は亜種ほどに違うと主張する説もある)。

沼や河川が近くにある湿原を主な生活場所としているが、近年では人間の作った耕地や水路で暮らす様になってきている。

 

寿命は最長記録で36年6か月(80年と記述している文献もあり不確か)。

魚や貝、昆虫、植物等、湿原に生息する生態系のあらゆる階層の生き物を餌とする。

鳥類や爬虫類、魚類等に特有の砂嚢(さのう)といわれる消化器官に砂利や小石等を飲み込んでおり、餌をすりつぶして消化を促進させる。

ときにガラスやプラスチック等の人工物も飲み込むことがあり、それが鉛の散弾や釣りのおもりの場合には中毒を起こす危険がある。

人間が環境に与える影響の一端が垣間見える。

 

成鳥の体長は首を伸ばして立つと1.5m程度。

翼を広げた長さ(翼開長)は2.3~2.4mに及ぶ。

「丹頂」という名称の通り頭頂の赤が特徴的であり、白と黒を基調とした身体との対比により一層際立ってみえる。

頭頂は赤い小さないぼ状の皮膚からなり、興奮すると皮筋の動きで広げられ、通常時より赤みを増す。

古来よりタンチョウはその大きさや姿の美しさから人々の目をひいてきた。

飛行の姿や交尾の際の踊り等、行動面においてもすべてのツル類の中で最も複雑優美な行動パターンを持つと言われている。

 

 

【タンチョウと人間】

前述の特徴もあり、タンチョウは古来よりめでたい鳥として特別視をされていた。

物語や歌、ことわざ、屏風絵や浮世絵の絵画等、多くの文学・芸術作品に姿をみせ(海外においても、例えば歌川広重の影響を受けたゴッホが、作品の背景の中にタンチョウの浮世絵を描いたものを残している)、一部の文化圏では神聖視すらされていた。

 

しかしその一方で、めでたいものと見做されたことが災いし、食用等、資源としての価値も見出され、乱獲された歴史を持つ。

日本では江戸時代に幕府の方針で、生類憐みの令に代表される、タンチョウの狩猟を禁止する布令が出されたが、布令の内容は江戸の地域のみに限定されたもので、江戸以外の地域は対象ではなかった(そうではなくても全ての地域の監視は現実的ではない)。

一方当時のタンチョウは蝦夷(北海道)から江戸に飛来する等、生息場所を一か所に留めていたわけではない。そのため蝦夷を中心とした江戸以外の地域での乱獲は止まることがなく、布令による抑止効果は限定的だった。

更に、明治時代以降の本州からの開拓民の流入により乱獲は活発化し、タンチョウの生息数は減少の一途を辿る。

遂には開拓開始から20~30年の間に国内のタンチョウは絶滅したと考えられていた。

 

 

しかし、1924年に国内での生存が確認される。

 

発見場所は北海道の釧路湿原だ。

 

 

【タンチョウと釧路湿原

釧路湿原に生息するタンチョウは、国内の他の場所に生息していたタンチョウとは異なり季節による生息地域の移動をしない。

このため、釧路湿原の奥地で生息していた個体は人の前に姿を見せることがなく、乱獲の被害から免れていた。

 

19世紀後半以降盛んになった釧路湿原の開発により、その土地の大部分が失われていった。

野生動物保護においては生息地・環境の確保は最も重要な事項の1つであり、湿原の減少は国内のタンチョウの存続にとって死活問題だった。

しかし市長や活動家、ボランティア等による保護活動が展開され、生息地域の多くが保護地域に指定され、開発は止まることとなる。

保護活動も、給餌や死亡の最も大きな要因であった電線事故への対策等、様々な施策が取り入れられた。

 

これらの保護活動の成果は先述した通りだ。

 

 

【タンチョウの再発見】

タンチョウの再発見者は北海道庁の斉藤春治氏とされている。

ただし、これは生存する証拠を記録として確認したものであって、斉藤氏が確認する以前にも、地元の猟師たちの間ではタンチョウの目撃談が囁かれ、生存の噂が流れていた。

斉藤氏はその真偽を確かめるためにタンチョウを探し求めた、というのが正確な表現だ(その際には地元の馬の牧場を経営する宮島徳三郎氏及び当時小学校を卒業をしたばかりの息子の利雄氏と友に発見した。宮島氏の馬に乗って何日も探し求めたという)。

 

 

記録上の発見者と実際の第一発見者が異なるというのはよくありそうな話だが、上記の経緯は、斉藤氏ではない他の第一発見者が存在することを意味している。

 

しかし、第一発見者の名前は、私が調べてみた範囲では記録に残っていない。

確認できたのは「釧路市丹頂鶴自然公園」の施設内に掲載されているイラストつきの解説画くらいで、地元の鴨の猟師が最初に発見したという記載があったのを記憶している。

解説画では「オラ本当に見たんだよ、信じてくれ」といったようなセリフと共に猟師の泣き顔が子供向けにコミカルに描かれていた。

解説文には、獲物を狙っていたが、近くにタンチョウがいたために撃つことが出来なかったと記載されていた。

 

 

(以上、主要参考文献「タンチョウ そのすべて」)

 

 

湿原内で野生のタンチョウに遭遇するのは、ヘリコプターを利用して何時間も探索して見つかるかどうかという記録もあるので、想定生息数20~40匹と、釧路湿原の広大な面積を考えると、この猟師の再発見劇は僥倖と言えるのかもしれない。

事実、能動的に探し求めた斉藤氏ですら相当な苦労をした様だ。

 

 

彼はある種の神秘的な体験をしたはずだった。

絶滅したと聞き覚えている生き物が突然目の前に姿を見せた。頭頂は赤く、全身は基調色の白と局部に模様の様に存在する黒からなり、体高も他の鳥とは明らかに一線を画している。最初はサギの一種か何かと思ったかもしれない。

タンチョウは絶滅したと認識している以上、正解に辿り着くことは出来ない。

それでも、何度も見直しているうちに、その鳥の特徴は絶滅した鳥のものと一致していることに気付かされていく。

 

やがて彼は確信に至る。あの鳥はタンチョウであると。

 

目の前の鳥が悠然と歩く姿は彼の心を大きく動かしたはずだ。

 

「タンチョウは絶滅した。でもあんな鳥はタンチョウ以外にいるはずがない。」根拠なくそう思わせる程にその鳥の姿は優美だった。

 

彼は獲物に向けた銃口を下ろしその場に立ち尽くした。

狙いが外れてタンチョウに当たってしまうかもしれないという可能性のために、彼は自分自身や家族の生活を繋ぐための本来の目的を放棄したのだ。

 

 

ーーー

 

 

 猟師になることを決意した時期は覚えていない。決意があったかどうかも定かではない。銃を扱うことが好きだったわけでも、その職が自分の気質に合っていると思ったわけでもない。父親が猟師であり跡を継がせようとしていたこと、また、なりたい職業が特段なかったこと、そういった事実がたまたま猟師という職へと導いていった。その選択に抵抗を示した訳ではないが、自ら積極的に選択したというものではない、それ位の心積もりだった。

 それでもやがて猟師としての生活にのめり込んでいくことになる。週に一日の休息日と季節的に狩猟の出来ない時期以外は、一日も休むことがなかった。仲間が酒に明け暮れる日も、天候が悪い日も狩猟に出かけた。悪天候やコンディションの悪い日は困難としてではなく、単なる状況の変化として捉えることが出来た。日々の状況に応じて対応を変えることも狩猟の一環であり、雨の日に獲物がいる場所や風の強い日の弾道のずれによる調整の仕方を学び、技能を向上させていく。弾にあたった獲物が死にきれず苦しんでいる姿を見ることにも、弾の節約のためにその獲物に自らの手を加えて殺すことにも初めのうちは抵抗感があった。だが次第にそれも猟師の担うべき役割の一つとして受け入れる様になる。

 

 集中しろ。それが口数の少ない父親から教わったことだった。その教えには、狩猟技術に関して言葉の意味以上の特別な示唆があるわけではない。でもその教えを一つの金言として大切にした。自分の気質に合うことが分かったからだ。集中をすることで獲物を狙うときの緊迫感も、死にかけの獲物に対する躊躇も、全て意識の外に追いやることができた。獲物を探すとき、獲物に狙いをつけるとき、仕留めた獲物の処理を施すとき、狩猟における全ての瞬間において集中を維持出来るように意識的に徹し、実際に集中を欠かすことはなかった。

 その様な徹底性が次第に生活のリズムを形作っていく。狩猟に意識の全てを預けることによって日常生活の喧噪や人間関係の煩わしさを忘れることができ、精神を養う様な感覚を得ることができた。なるべく獲物を苦しませない様にすることも自分に与えられた使命として自覚し、そして果たしていった。父親のたった1つの教えが生活に潤いを与えていた。最初は惹かれることのなかった猟師という職にいつしか満足を覚える様になっていた。

 こうした気質の傾向がある日の出会いに導いていくことを知る由もなく。

 

 

 

 タンチョウに遭遇したのは、どういうわけか1匹も獲物を捕らえることが出来ない日が珍しく何日か続いていたある日のことだった。不猟が続いていたこともあり、その日は普段入らない様な湿原の奥深くまで入っていった。生い茂った草木をかき分け、足場の悪い泥炭地や水の中を一歩一歩踏みしめながら進んでていくと、やがて視界が良好な大きめの池塘(ちとう)に出た。誰かが何かの間違いで作ってしまったかの様に感じられる、大きな池塘だった。水面には空と雲が映って深い青味を帯びており、ときおり吹く風が水面を揺らしていた。

 少し離れた水辺に獲物の姿を捉えた。数日振りの獲物だ。直ぐに仕留める準備に取り掛かかる。音を立てない様に、姿を見せない様に細心の注意を払いながら、肩から提げていた猟銃を手にとり、安全装置を外し銃口を獲物に向ける。

 

 獲物の近くを見慣れない鳥が歩いていた。

 釧路湿原にこんな種類の鳥がいたのだろうか。少しサイズの大きい個体のサギだろうか。獲物としての値打ちはつくのだろうか。

 そういった疑問が頭をよぎったものの、父からの教えは、雑念を追い払い本来の目的を果たす様に導いた。新たに現れた関係のない鳥のことは忘れ、再び意識を元々狙っていた獲物に定めようとする。

 

 しかし視界の片隅で不意に何かをとらえてしまう。白と黒の毛に囲まれた赤い頭頂だ。その特徴的な頭を見て、思い当たることとなった。あり得るはずのないことが起こる可能性に、その出来事が今まさに自分の身に降りかかっている事実に。

 改めて本来の獲物とその鳥を比較してみるとその大きさに気付かされた。明らかに他の鳥とは一線を画す様な外観の鳥だ。その姿の美しさに立ち尽くしてしまう。築き上げた精神状態は瓦解してしまい、不思議な感覚が胸の中を満たしていくのが分かった。

 でもその鳥にどう対処すればいいのだろう。自分のすべきことは、何もせずそのまま引き上げて報告をすることだろうか、それともまずは本来の獲物を捕らえることだろうか。一般的に考えればその状況下で獲物に狙いを済ませることは懸命な判断ではないかもしれない。狙いが外れる可能性は多いにあり、貴重な生存個体を前にして発砲したことで非難を浴びる可能性がある。でもその時の特異な状況下では、冷静な判断はできるはずもない。取ることの出来た選択肢は最も本能的で最も信頼のおける判断軸に従うことだった。猟師という職を通じて身につけた気質・考え方は身体の隅々にまで染み渡っていた。

 再び猟銃を構え、獲物に狙いを済ませる。深呼吸をして獲物のことだけを考える。視界にはそれ以外のものを一切入れない様にする。

 構える時に足を踏み入れた水の冷たさが体を伝わってきた。

 大丈夫、何も迷うことはない。いつも通りにやればいい。集中しろ。

 

 しかしやがてゆっくりと銃口を降ろすことになる。撃つことはできなかった。今まで磨き上げてきた技術も、狩猟に適した気質も、何年も貫いた父の教えも、全てはその鳥の前では無力だった。その場に立ち尽くし、遠くの鳥をただ見つめることしか出来なかった。

 

 冷たい秋の風が釧路湿原の彼方から吹き抜け、風に吹かれたヨシの葉が音を立てて揺れていた。雲の流れは速く、太陽が雲間から姿を現したり隠れたりを繰り返していた。天候の変わりやすい釧路湿原の遠くの方で雨が降っているのが大気の色で分かる。遠くの出来事なのにその雨が降っている様子が自分の感覚として伝わってくる様だった。

 

 いつの間にか獲物の鴨は姿を消していた。広大な釧路湿原の真ん中で、目的を果たすことができなかった猟師とタンチョウだけが、止められた時間の中に取り残されたみたいだった。その鳥は羽ばたくわけでも鳴き声をあげるわけでもなく、ただつまらなそうに地面をつついていただけだ。それでも頭頂が放つ赤の色彩は、まるでその邂逅を示す象徴であるかの様に、猟師の心をいつまでも揺さぶり続け、その場の時間の流れを退行させていた。

 

 

 

 初めは自分の身に起こった出来事を人に話していた。他の猟師の間でもタンチョウが生存するという噂は広まり、同じ様な目撃談がいくつか囁かれ始める。自分が第一発見者だと主張する人が複数人現れる様になる。そしてついに斉藤氏によりタンチョウの再発見が報告された。

 猟師は本当に自分の身に起こったことなのかどうか確信が持てなくなる。

 やがて猟師はその出来事は一切話さなくなる。話すのを止めたのは本当に起こったことなのか確信が持てなくなったからではない。どうも上手く説明することができなかったからだ。自らの身に起こったこととして話すにはその出来事はあまりにも非現実的すぎた。絶滅したと思われていたタンチョウが自分の目の前に現れたこと、本来の獲物に対して自分の責務を果たせなかったこと、自分が最初の再発見者であったこと、そのどれもがあの出来事を正確に表現する事実ではない様に思えたのだ。

 

 その出来事が与えた猟師の心境の変化は外形からは分からなかった。事実、その後も猟師という職を変えることはなかった。タンチョウの発見により釧路湿原は狩猟禁止区域に指定されたため、活動場所を変えることになったが、タンチョウが現れることのない新たな地で狩猟を始める。場所を変えた後もこれまでと同じ様に休むことなく狩猟を続けた。長年培った技能や精神状態も変わりなく維持することができた。

 にも関わらず、以前の様に生活に満足を覚えることはなくなってしまった。あの時に見たタンチョウの頭頂の赤い輝きによって、猟師の中で何かが損なわれてしまっていた。タンチョウの出現や保護活動の始動によって、自らの職と使命に劣りを感じたからではない。普段から仕留めている獲物と、あの日撃つことが出来なかった鳥との相違の有無に頭を悩ませたからでもない。それは、強い光を見たときに視覚が影響を受ける様に、タンチョウの赤い頭頂がそれまでに味わったことのない感覚を猟師に覚えさせ、日々感じていたささやかな満足感を鈍らせてしまったかの様だった。タンチョウと遭遇できたことと引き換えに猟師が差し出さなければならなかったものは大きかった。

 

 タンチョウの赤い頭頂はその後の猟師の人生に光を与え、そして影を与えていた。目の前には光に照らされた新しい道が開かれていた。その道に進むこともできたはずだった。

 けれども彼が選んだのは新しい道ではなく、元々進んでいた暗くなった方の道だった。

 それまでは鮮明に見えていたその道の風景も今では影の中に落ち、暗い湖の底に沈んでしまった空き瓶の様に、猟師の世界からその存在を確認することは出来なくなっていた。かつてその道の先で目指していたものは、今ではもうなくなっているかも知れない。道はもう途中で途絶えているかもしれない。それでも彼は暗闇の中を進み続ける。果たされることがないと半ば諦めながらも、今まで目指してきたその道の先にあったものを掴むために。損なったものをもう一度自分のもとに取り戻そうとするかの様に。

 

from K

最初の書き込み。

 


昨年の12月、前職を辞めて直ぐのタイミングで、
とある猫のお墓参りに行った時の写真です。

 

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15年前にその子が最期に過ごした場所にお花を供えました。

 

それ位前のことなので、他の人のお花が添えてあるとか人が訪れていたとか、
その出来事の跡の様なものはありませんでしたが、
(命日になると今でもお花を供えにいく人がいるそうです。)
何の変哲もない普通の光景にも、私には堪えるものがありました。


傷ましく救いのない出来事でしたが、その子の小さな声は多くの人の心に響きました。
人々を動かし、動物を取り巻く環境に変化をもたらしました。
当時、その子の名前に宛てて「Dear (猫の名前)」というWebサイトが作られ、
それがきっかけで大きな動きとなっていきました。
いつしかその動きはその子自身が生み出した力だと言われる様になりました。

 

Dearではなく、Fromなんだと、
そういうことかもしれません。

 

そして私もその子の声に目覚めさせられた中の一人。
その言葉を掲げようと考えていたこともありましたが、思い止まりました。
悲しみを前面に出すのではなく、動物のどこまでも無垢な心と優しさを広めようと。
特にこれからの世代の人たちには、その悲しみを知ることなく、動物を思う気持ちが芽生えてほしいと。
そう思ったからです。
その方がきっとその子にとっても望ましいことだと信じて。

 


でも、私個人の心構えとして大切なことを忘れないように、その言葉はここに留めておこうと思います。

 

時々自分が何のためにやっているのか意識できなくなることがありますが、
一番最初のきっかけになったこの子のことを思い出して
自分を鼓舞させていきたいです。


その中で日々生じる個人としての思いは、この非公式な場でひっそりと記録していこうと思います。

 

宜しくお願い致します。